何となく。

 

 

「自転車のスピードで生きる。」
〜23,MARCH,2008

 

今年は、寒くなったこの時期にも自転車に乗りたいと言ってお店を訪れてくれる方が増えています。これまでは、寒くなるとめっきりみなさんの脚が遠のいていたような感じでしたが、ここ近年は、暑い寒い関係なく、「自転車に乗る」という事が定着したようです。これは、きっと自転車に乗るということが車に乗ったりする以上にその人の生活の一部となってきているんだろうなと思っております。昨今、地球環境の危機がそこらで叫ばれていますのが、なんとなく、飛行機や車のスピードではなく、自転車のスピードがこれからの私たちの生活にふさわしいような気がしてなりません。
がむしゃらに走るのではなく、周りの景色が見える程度に進んでいく。そのさじ加減は難しいですが、自転車のスピードは、きっとひとにも地球にも程よいものではないでしょうか。
ま、自転車が環境にやさしいと言っても、自転車に乗っている人の口から温暖化ガス(二酸化炭素)は放出されますので、完全なCO2 FREEではないですが。。

 

「楽しんでる?」
23,May,2003

 

乗るのが楽しくて仕方がない。子供たちが自転車に乗っている姿である。意味もなくあっちへ行き、こっちへ行く。用事もないのに町内を一周し、まっすぐ走らずうねうねうねうね走っている。大人の私たちからすればなんと無駄ばかりだろうと思ってしまうが、その姿はとても輝いて見えるのも事実ではないだろうか。ついつい「おとな」の世界で生きると効率や効果というものを求められるが、あれだけ輝いて見える「おとな」は、最近めっきりお見かけせぬようになったのは気のせいだろうか。

 

「自転車にのろう!」
12,Mar,2003



最近、スキー場が苦戦しているらしい。今までのように人が集まらないそうだ。延々と移動する時間と高いお金をかけてまで行かなくても、身の回りに手軽に楽しめるものが増えてきたというのがどうもその理由らしい。
そういえば僕たちを常に飽きさせないいろいろなものが出現してきた。携帯電話は、その最たるものだろう。人と人の会話だけでなく、ゲームをしたり、文章を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たり‥‥。いままで部屋の中という場所を限定した行為が携帯電話を通じていつでもどこでもできるようになったということはとても凄いことだ。街角や電車の中で携帯電話に向かって黙々と親指を動かしているひと、マクドナルドやカフェでラップトップPCを開けてるひとを最近よく見かけるようになって、「いつでも、どこでも」のユビキタスの思想が具現化するとまさにこうなるのかとついつい感心してしまう。しかし、もう少しよく観察してみると、どうもみんな楽しそうにない。楽しそうというより怖い感じすらある。僕の気のせいか?
こんなに便利になり、「いつでも、どこでも、だれでも」様々なサービスを受けられるようになったというのに楽しくないはずがない。
でも、あまり楽しそうにない。「いつでも、どこでも」は、常にひとになにかをさせる。それは、ひとをなにかしていないと気が済まないような状況を生み出している気がする。そして「いつでも、どこでも」できる事としてお膳立てされたコンテンツは、どーでもいいようなものばかり。時間は黙々と過ぎ去るが、終わった後で感じるのはひょっとすると満足感よりも虚無感の方が大きいのかもしれない。そして、ほとんどの場合新たに生み出すものはなにもない。ふと、わが父が口癖のように行っていた言葉が頭に浮かんだ。「ついでに生きてたらあかんで。」常に何かしているのに、何も生み出さない今の状況は、まさに「ついでに生きてる」状況そのものではないだろうか。いまは与えられるものが多いが故に自分で考え創造する力が必要でなくなってきているような気がする。「いつでも、どこでも」なにかしているのだがなにもしていない、そんな状況を僕たちは無意識のうちに感じ取っているのかもしれない。

どうせ何にも成らないような時間を費やしているのなら、新たなユビキタスツールとして自転車にのろう!というのが今回の提案である。「自転車」というのは、今の時代ではどちらかというとあんまり便利ではなく、効率の悪い乗り物である。しかし、効率が悪いからこそ生み出すものもあるということを僕は長年付き合ってよく知ってるつもりだ。その解釈はこうだ。

  • 決められたある地点までの移動媒体として考えると、自動車や自動2輪、もしくは電車のほうが効率は良いだろう。しかし、人にとっては出発点と到着点のそれぞれの点での情報しか得る事ができない。それに対し自転車は、通る道の情報を得る事のできる速度での移動なので、移動しながら様々な事象にふれ、コントロールされていない様々な情報を得る事ができる。天候や季節を肌で感じる事ができるし、ちょっと気になったところでいつでもどこでも立ち止まる事ができる(いわゆる寄り道ですね。)。通る道の選択も自動車や自動2輪よりも圧倒的に多い(電車は論外。)(回り道ですね)。
  • 自転車は、歩くことよりも多くの風を感じる事ができる。自転車は乗れば「いつでもどこでもだれでも」風を感じる事ができる。なにより、歩くより多く移動できる。
  • そして、自転車に乗っているときは基本的に自転車に乗る以外なにもできない。目は外へ向く。


今の僕たちの環境は、携帯電話にしてもテレビにしてもPCにしても、常に目線が内へと向かう傾向にある。そしてなにかをしている気にさせられ、得られる情報はその中で完全にコントロールされたものである。しかし自転車は、自転車に乗る以外基本的に何もできない。何もできないときこそ、何かができる時でもある。何かしていると思っている時は何も考えられないが、何もしてないとあれやこれやと考える事ができる。
僕たちは、「便利」や「豊か」という言葉に魅せられ様々なものを創り出したが、なんとなく楽しくない。
過保護すぎる今の時代は、僕たちにあれやこれやといろいろなものを与えてくれた結果、僕たちは常に何かしている気になり、あれこれ考える暇すら無くなってしまった。でもじつは、「何もしてない」ときこそ創造的な時間であり今の僕たちには大切ではないだろうか。「何もしてない」ときを「いつでも、どこでも」生み出す自転車、いまの時代にこれほど贅沢で豊かな乗り物もないだろう。
さあ、自転車に乗ろう。

 

いまをいきる。
( MontainBikeRider 1999年冬号掲載)

 

唐突ではあるが、先日、ふと、伝統について考えてみた。はたして伝統は、過去のものだろうか? というのも、ともだちの芸妓さんのことを思い出したからだ。ともだちいってもぼくよりずっと若く、二十歳そこそこなのだが、踊りや三味線などのお稽古ごとのことやその世界の上下関係やしきたりのことを聞くとぼくたち以上にたいへんで忙しい毎日を送っている。これらは、僕たちが、彼女たち「芸妓」や「舞妓」に持ってるイメージ、髪を結って、白塗りで、振り袖で、「おおきに」「ごめんやす」等の今では使わない京都のネイティブな話口調が自然に使えて‥‥、などなど京都の伝統的なものを保つためだ。彼女たちが相手をするお客さんもその「伝統」に触れるために会いに来てるのであって、それが無ければ、別にどっかのパブやクラブのホステスさんとこに行っても同じである。その「伝統」もかっこだけではない。その身振り手振り、立ち振る舞いの至るところから醸し出されなくてはいけない。そのために置屋でのおかみさんとの共同生活に始まる徹底した教育がなされるのである。かっこだけなら京都旅行に来た女の子がよく行く写真スタジオで「舞妓」に変身できるけど、変身した「舞妓」は、やっぱり「舞妓」ではない。(一時期、舞妓のかっこで街中を散策することがはやっていたけれども、あのだらだらした「舞妓」はどうもいただけないものだった。そういえば祇園のおかみが、そのことについてえらく怒っていた。あれは「舞妓」の品を下げるって。)

このように、彼女たちは「伝統」の代表として、この京都に存在するわけである。しかし、彼女たちは、「いま」にいることを忘れてはいけない。「伝統」そのものが持っている性質が、もともと時間のズレから生じるもので、人びとは、「伝統」と「いま」のギャップを彼女たち「伝統」に求めるわけだけど、彼女たちは、「伝統」一辺倒ではいれない。なぜなら彼女たちは「いま」を生きているからだ。彼女たちは「いま」の友達と遊び、「いま」のお客さんの相手をする。友達とは、お芝居や謡(うたい)の話より、ファッションや遊びの話のほうが楽しいし、お座敷で俳句を興じあうより、「いま」のはなしをする方が盛り上がる。オフの日は、着物じゃなく服を着て、ショッピングもするし、音楽も邦楽だけでなく、ポップなものも聞く。i-Macでインターネットなんかもしてる。もちろんクラブで踊りまくる日だってある。こういったことがまたお客さんとの接点にもなっていく。

そういえば、知り合いの料亭のおかみさんも同じ様なことをいっていた。老舗としての看板を掲げてはいるが、それだけでは老舗としてやってはいけない、京料理を出すにしても、フランス料理もイタリア料理も知らなくてはいけないし、新しいお店ができればすぐに行ってみる。そういったことが現在を生きる「老舗」として必要なことだという。こうやって考えてみると、「伝統」にしても、「老舗」にしても、それが持っているイメージは、過去のものであるが、「いま」と常につながりをもってこそ、「伝統」「老舗」として現在のなかで生きていけるんだろう。かたくなに伝統や看板にこだわり、周りからの干渉を排除するのではまく、こういった柔軟なかたちでまわりとつながりを持ち、そこでいかに自分たちの存在を活かしていけるか、これがたぶん重要なんだ思う。

これは、今のぼくたちの環境にも近いものがあると思う。ぼくたちが、マウンテンバイクというものに関わってからもう10年ほどになると思うけど、その取り巻く環境は、常に変化していいった。コンピュータほどではないが、その変化の速度はとても早く、ついていくことばかり考えていると、自分を見失いそうになる。しかし、逆に自分というものにこだわりすぎて、その流れを無視してもいけないように思う。そしたら、どうしたらいいのか? こんなとき、芸妓の友人のことを思い出した。自分という存在をしっかり保ちながら、「いま」を生きる。核となるものを持ちつつも、まわりとは柔軟な関係でいる彼女たちは、ぼくの半分ぐらいしか生きてないのにすごい師匠のように思えてきたのだ。いま、ぼくのバイクづくりもこうありたいと思っている。

もう一度考えてみる。 はたして伝統は、過去のものだろうか?

 

 

たのしむ。
( MontainBikeRider 1999年秋号掲載)

 

先日、あるお客さんに、「かたおかさん、やっぱりこだわってますねえ。」といわれた。
ぼくには、どうもこの「こだわり」ということばはしっくりこない。ぼくはこだわってバイクをつくっているのではなく、すきだから、たのしんでバイクをつくっている。そこにこだわりなんてことはひとつもない。
たのしんでいるがゆえに自分の納得いくものができる。
どんなことでもそうだと思う。ぼくはたまたまたのしみがバイクづくりであっただけで、みんなはそれぞれのたのしみをもっているはずだ。どんな仕事でもそこにたのしみを見つけだせば、それはたぶんいい結果につながっていくだろう。
でも、このことは、決してたのしいことだけをしようといっているのではないということは解ってほしい。もちろん生きていくということは、決してたのしいことばかりじゃない。いや逆にたのしくないことの方が多いかもしれない。でも、たのしくないことも、たのしい、おもしろいと思えるきもち、これが実は大切だと思う。

それにしてもいまは、実にいろいろなたのしみが増え、どんなことでも簡単にたのしみが手に入るようになったが、逆に自分でたのしみを見つけだす力が薄れてきたように思える。マウンテンバイクのたのしみ方も、どうも、単純化してしまっているような気がしてならない。
例えば雑誌に取り上げられた場所そのままのクルーズをたのしんだり、写真で見たままのバイクを欲しがったり。自分の新しいたのしみの探求のひとつとして、そういった情報を参考にするのはいいと思うが、それをうのみにして、そのまま反復しても本来の楽しみからは少しずれたものとなってしまうように感じる。マウンテンバイクはもともと、街を走り抜け山を駆け抜ける冒険の道具だ。
冒険とはあえて回り道、寄り道をすること。新しい発見、新しい楽しみがあるからこそ冒険なのだ。しかし今や、冒険にまで手軽さや効率を求めてしまう。効率化されたたのしみなんて、ちっともたのしくない。たのしみにルールはないし、人から強要されるものでもない。そんなことはみんながよく分かっているはずなのに、知らぬ間にルールができ、楽しみを選ばされている。みんなと同じたのしみしかできなくなってしまっている。クラブに行っても、みんな同じように踊っている姿を見るとちょっとゾッとする。前にクラブに行った時は、ひとりの外国の女のひとがこれまた不思議な踊りかただったが、すごく気持ちよさそうに踊っていた。みんなは自由や個性的なものに憧れるわりには、自らを束縛し、個性をなくしてしまい、「みんなと同じたのしみ」しかできなくなってきているのだ。
さらにインターネットの普及は、この傾向をますます強めていくような気がする。ネット上には莫大な情報が流れだしてきたが、決してこれは全てではない。にもかかわらずその情報に絶大なる信用をおいている人は少なくなくなってきた。ネット上では、近所の雑貨屋の掘り出しものを見つけだすことはできないということを忘れてはいけない。先日、ぼくのところのスタッフがネット上で数千円の値の付いたスターウォーズのフィギィアを近所のおもちゃ屋で850円で買ってきた。そんなもんである。ビゴーレもホームページを持っているがそれが全てではないし(更新をしっかりしてないというのもあるが‥‥すみません)、店に来てもらってたのしんでもらえることの方が多いと思う。インターネットはあくまでビゴーレを知ってもらう窓口程度のものだ。ぼくもお客さんと直接話しができる方がどんな展開になるかわからないからたのしみでわくわくする。
まあ、なんにしてもまだまだ、たのしみは、いっぱいころがっているということだ。
まずはマウンテンバイクにまたがり、山に、街にくりだしてみてはいかがだろうか。普段慣れた道も少し足を止めわき道に逸れてみる。目的地までは遠のくかもしれないし、時間もかかるかもしれない。でも、きっとそこには、新しい発見、新しい楽しみが待っているように思う。ただし、マウンテンバイクを持っているからといって新しいたのしみに即つながるというわけではないということは気を付けなくてはいけない。
たのしみをみつけるのはあくまでマウンテンバイクに乗っているそのひと自身なのだから。

 

「見た目」。
( MontainBikeRider 1999年夏号掲載)

 

「見た目」というのは思っている以上に、良きにつけ悪きにつけひとに与える影響が大きいとぼくは思う。
まことに最近の世の中を眺めているとよく感じる。そして、今の世は無意識か意識的かはわからないが、その「見た目」の重要性を感じ取っているようだ。小学生や中校生が化粧をし、男までもがエステに通うというのは、見られていることに対し敏感であることにほかならない。
たしかにひとはまず「見た目」で判断し、理解しようとする。「見た目」は、ものごとの最初のきっかけとなるという意味において重要なことである。

でも、ものごとは「見た目」だけではないということも重要なことである。たとえば、むちゃむちゃかっこいい奴なのに、しゃべると幻滅したとか、宣伝ではむちゃむちゃおもしろそうな映画が実際に観たらぜんぜんつまらなかったなんてなことはけっこう身の回りでも体験することだ。なにごともふれてみて初めてものごとのほんとのところがわかるもんだ。先日も、女子大生と合コンをしたのだが、あれは、いい。別にへんなことを考えてるわけではないが、はじめは「見た目」でしか判断材料がなく、どんな会になっていくのかどきどきするが、和みだし、互いに互いの「中身」が解るようになるにつれ、だんだんと会は盛り上がっていく。ついさっきまではあかの他人だったのに終わった頃にはすっかりともだちになれる。新しい人間関係を作る上で、合コンはなんて素晴らしい行事なんだろうか。まさに人間相互理解の基本は合コンにありといったところか。
少々、話がそれてしまったけど、ほんとにいいものは、「見た目」も「中身」もどちらにおいても充実しているように思う。それを戦略的にやっているのがいまやi-macですっかり有名になったアップルコンピュータだと思う。
アップルは設立当初、専門家だけのものであったコンピュータをなんとかしてだれにでも使えるようにとGUI(Graphical User Interface,すなわちアイコンという小さな絵でコンピュータの中身を示した)というソフト的な開発をおこなっただけでなく、コンピュータのハコそのもののデザインにも力を注いだことはいまさら言うまでもないかもしれない。
いまではあたりまえのことだけど、まだコンピュータが機械だった当時においては異常とも思える行為であったにちがいない。でも、より多くのひとに受け入れてもらうにはその「見た目」も重要な要素となるということをアップルは知っていたのだ。
「中身」と「見た目」の充実。これがアップルを大企業へと押し上げたのだ。i-macも「見た目」ばかりが取りざたされてるけど、実はその「中身」もかなり充実してるということは注目すべきであると思う。古いコンピュータがいまだに高値で取り引きされてるのもアップルぐらいだろう。

ぼくのつくるバイクも、もちろん「見た目」も「中身」も充実したバイクでありたいと思っている。
マウンテンバイクと名の付いた自転車は世に溢れるようになったけど、本当にマウンテンバイクなのは、はたして何台あるのだろうか。最近ストリートではダブルサスのいかついバイクにまたがってるひとを見かけるけど、あんないかついバイクですら、山で走れるかは、疑問の残るところである。ぼくのつくるバイクは見た目、シンプルでベーシックであるが、いろんな試行錯誤を繰り返し、たどり着いた形状である。無理のない形状が一番機能的であったし、また一番美しくもあった。奇をてらった形は最初のインパクトはあるがそれだけである。バイクは乗ってこそ価値のあるもので、過剰な部分はかえって質を落とすのだ。Simple is Best.これこそが「見た目」も「中身」も充実させてくれる要素のようである。

先日、パタゴニアなるアウトドアショップに、とあるきっかけでバイクをおいてもらうこととなったのだが、あまり広報活動に興味を示さないぼくがなぜ、パタゴニアにおいてもらうこととなったかというと、パタゴニアのものづくりも、「見た目」も「中身」も充実させるかたちで展開されてたからである。はたけは違うけれども、同じような思いでものづくりをしているところがあるとなんとなく嬉しいもんである。だから、ぼくは喜んでバイクを提供させてもらってる。 なにはともあれ、「見た目」と「中身」を充実させることは、たいへんだけど、今後もこのことを心にとめてバイクづくりに励んでいこうと思う。
そのまえに、ぼく自身の「見た目」と「中身」の充実にも励まなくてはいけないが。

 

 

VIGOREというところ。
( MontainBikeRider 1999年春号掲載)

 

京都弁でと、このコーナーの依頼を受けたときは頼まれたのだが、京都弁というのはどうも文字にすると田舎臭くていけない。
「〜やで」とか「あかん」、「おおきに」等々普段口にはすれども、文字にするとその独特のイントネーションは感じにくく、不格好さだけが紙面に残ってしまう。編集部の人は、生粋の京都人であるぼくとこの京都独特の穏やかな言い回しからは想像できないぼくの作品(たとえば、ダブルサスバイク)とのギャップに興味を持ってこの件も依頼してくれたので、「京都」を醸し出すのは必須のことで外すことはできないということは重々承知なのだが、ぼく自身、「京都」を意識してものづくりをしてるわけでもないし、ここで無理に「京都」を出してもかえって白々しくなってしまうであろうから、そのことについては意識せずに話を進めていきたいと思う。まあ、もし読者の方々がぼくに協力的であるなら、この文章を読むにあたっては、「京都風」イントネーションをもって読んでもらえたらと思う。

さて、まずは最初ということで、少々宣伝っぽくなるがぼくとVIGOREというお店(もしくはブランド)について話してみようと思う。 もともと、家が代々自転車屋でぼくで3代目となるのだが、いま自分がやってること(フレームビルド)や店は親父のものを継いだわけでもなく、逆にそういったものを全て断ち切ったところにあると思う。たしかに、自転車に対する興味や関心、そして自転車に向き合う姿勢は小さい頃からの環境の影響は大きいであろうし、伝統の街京都にいて、その伝統を継いでいける立場にいながら、それを捨てるなんてもったいないかもしれない。でも、それを乗り越え、新しいものを作り出したかったし、そんな時、伝統はかえって足かせとなる。だからぼくは、自分の力で生きてゆくことを選んだ。
こうして「VIGORE(本来、イタリア語で、'活力、精気'の意味であったけれども、先日、カリフォルニア在住のブラジル人が来て、スラングで "let's go!!(みんな、やろうぜ!)" という意味があると教えてくれ、今はそっちのほうが気に入っている)」の名とともに自らの道を歩みだしたのだ。ひとりでやっていくことに関しては、不安がないわけではなかったが、小さい頃から親父が仕事をやってるのをずっと見ていたということもあり、ある意味、自転車については英才教育を受けてるわけで、「いいもの」を作る自信はあったし、良いアイデアが浮かんだらすぐにそれを形にできる技術も自分にはあった。だから自分の選んだ道について後悔はした記憶はあまりない(?)と思う。
そして、試行錯誤をくり返し、まず世に知れるものとなったのが日本初のダブルサスバイクとなった「VIGORE Dual Suspention」である。現代のものづくりの中心は「量産」で、同じものを多く作り、値を下げることに腐心しているが、「量産」する事によってものは個性や融通性を失い、本来人のために作られていた道具としてのものが人間性を失い、経済効果という名の下に一人歩きしているのではないだろうか。このことにぼくは強い否定感があったので、これについて自分なりの答えであったDual Suspentionが世に受け入れられたというのはとてもうれしかった。

もちろん、VIGOREも生きてゆく為には稼がねばならない。これは仕方のないことではある。しかし、ものづくりにおいて稼ぐことが先行してしまってはいけないように思う。「人あってこそのもの」なのだから。
このことはVIGOREの本質でありたいし、また、大きなところと渡り合っていく為の大切な武器となる、とぼくは思っている。

のっけから少々堅い内容となってしまったかも知れないが、まずVIGOREを語るにはこのことを抜きにしてはいけないと思ったので大雑把ではあるが書いてみた。 今、VIGOREにはいろんな人たちが集まって来てくれる。
我がバイクを愛用してくれているライダーは勿論のこと、学生、デザイナー、プログラマー、DJ、大工、等々いろんな業種の人が集まり いろんな話をしてくれる。やはりメインは自転車のことであるが、ぼく自身勉強になることも多い。最近では店内は自転車屋さんというよりは文化サロン的雰囲気のほうが色濃くなってきたかもしれない。
ここに来るみんなが自転車を通してつながっているかと思うと何とも不思議なものである。この人々の存在もVIGOREにとってはいまや欠かせない。活気溢れた店の雰囲気を何とかして伝えたく思うが、やはり活字では無理がある。
まあ百聞は一見にしかず、試作のフレームやパーツでごった返してはいるけれども、一度VIGOREに来てみてはいかがであろうか。

まずは、粋な飲み屋でも紹介しましょう。 ようこそVIGOREへ。

 

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